冬のオフシーズンに30年間欠かすことなく通い続けた大好きなタイ。
「ただいま」「おかえり」みたいな間柄でしたが、今年は初めてタイに行くことができませんでした。
今回のおてら通信は最後となった昨冬の「タイひとり旅」より、
私のもう一度訪ねたかった場所第1位!
どこのタイの町とも違う、ちょっと不思議な村「メーサロン」をご紹介します。
9年ぶりに再訪が叶い、今回はのんびりと数日間を過ごしてきました。
1年遅れの「タイ旅報告」です。
(タイ北部山岳地帯の山奥の山奥、標高1400メートルにあるメーサロンの朝日)
人里離れたどえらい山奥の、猫の額ほどの峰にへばりつくように家々が建つ、
タイ北部チェンライ県に属する村メーサロン。
この村が出来た‶いきさつ‶はかなり変わっています。
第2次世界大戦で日本軍が敗退した直後に中国で始まった「国共内戦」。
毛沢東率いる中国共産党人民解放軍に敗れた蒋介石率いる国民党軍はそのほとんどが台湾へ脱出しました。
しかし、中国の奥地(四川省や雲南省)に展開していた国民党軍の部隊の多くは台湾へ脱出できず、
そのまま家族ごと逃れるように陸続きのビルマ(ミャンマー)へ渡りましたが、
ビルマは安住の地にはならず、厄介者としてビルマ政府軍に攻撃され激しい戦闘を繰り返しました。
そして1960年代、生き残った部隊は山岳地帯を移動してタイ領へ入り、
北部の山奥へ落ち延びて作った村がメーサロンです。
(村の全景。どことなく奈良県の吉野山に似ていると思う。山桜が有名なのも一緒)
(晴れているのに空が霞んでいるのは乾季に行う少数民族の「野焼き」の煙のせい)
人徳のあった師団長(段将軍)のもとで一致団結、ケシ栽培(アヘン)をして
「麻薬密売」で軍事資金を稼ぎ、村を整備して「軍事訓練所」まで作りました。
そしていつの日か大陸で反攻するための「軍事訓練」を20年以上
ものあいだ怠らなかったというとても士気の高い部隊でしたが、
タイ政府側の要請(取引)に応じて、タイ国籍を取得する代わりに「武装解除」をしたのは、
日本がバブル景気で浮かれていた1987年のことです。
以来、メーサロンは現在も基本的に中国国民党残党部隊の子孫の人々が、
自分たちの中国式の風習文化を守りながら静かに暮らしています。
(メーサロンといえばこの茶畑の景色)
高地にあるメーサロンは日中も陽がささないと肌寒い気候です。
特産品は山の斜面で栽培される中国茶。そう、かつてのケシ畑が茶畑に変身したのです。
お茶は、日本と違って茶摘みの季節というのはなく、1年中いつでも摘み取りをしているそうです。
(眺めのよい斜面に広がる茶畑のど真ん中にあるテントの宿泊施設)
風光明媚な景観を求め、避暑地や観光地として訪れる旅行者も増えて、
眺めの良さを売りにした小さなホテルやバンガローも9年前よりずいぶんと増えましたが、
さすがにこんな山奥なので発展にも限度があるのか、
「秘境っぽさ・素朴な居心地の良さ」に激しい変化はなくうれしかったです。
(国内外旅行者に浸食されてしまった北部の町パイみたいになったら悲しい)
ちなみに軍事訓練をしていた施設は村営の「リゾートホテル」に生まれ変わり、
皆から父のように尊敬されていた師団長(段将軍)の子孫は現在「段将軍」の名で
大きな中華レストランを営んでいます。(やはり中国系だけあり商魂たくましい)
(村の敷地で平(たいら)な部分は少なく、道のほとんどが坂道)
(特産の中国茶はもちろん地元でも買える)
表記も中国語が多くて料理もタイ料理よりも中国系の料理がおいしいメーサロン。
元々の部隊は雲南省出身の人たちなので料理は雲南料理が主流です。
家族経営の新しいゲストハウスの朝ごはんも毎日おかゆに中華風の炒め物でした。
(これで1人前。そしてなぜだか毎日、ぶ厚いシュガートーストが付きました)
「中国色が濃い」といっても、親戚がいたり‶身近‶なのは「台湾」で、
こういうタイにいくつかある「国民党残党の村」に対する支援も台湾政府が行ってきました。
(麺食堂。中国色が濃いけど‶ゆるさ加減‶がやっぱりタイですね)
タイと混ざり同化したような一般的な「華僑(かきょう)」とは違う、
自分たちの特殊な出自に誇りを持っている村人に滞在中、何人も会いました。
村を見下ろす山の頂上にはタイ政府が造った立派な仏塔がありますが、
ちょっと村の雰囲気に馴染んでいない感じが。「行くのは観光客くらい」と村の人も言っていました。
そして、
さわやかな気候と絶景と「タイなのに中国みたい」
というだけではない、メーサロンに惹かれる理由はもうひとつあります。
それはメーサロンは「山岳少数民族との共生の村」であるということです。
周辺にはこの村ができる以前から暮らしていた、
アカ族・リス族・ラフ族・ヤオ族など多くの山岳少数民族の集落が点在していているのです。
(左に見える集落は村から一番近いアカ族の村。徒歩で行ってみたけど犬がいっぱいで断念)
(9年前はバナナの葉で葺いた屋根の集落もあったけど、何所もトタン屋根に様変わりしていた)
今では同じ山奥に暮らす者同士、仲良く共存共栄していますが、
かつて残党部隊が山奥のこの地に突然と姿を現して定住をはじめた時は、
山の民たちは「誰~~!!」とびっくり仰天したのではないでしょうか。。。
ということで「メーサロンの朝市」は地元の中国系の人たちのほかにも、
各村々から徒歩やバイクで商いや買い物に来る少数民族の人々で賑わいます。
平地の市場に比べると品数も規模も比べモノにはならないけれどここは山奥ですから。
野菜類の他には、肉まん・あんまん類、品数は少ないけどお惣菜も売っていました。
これは赤いもち米の餅を炭火で焼いた「焼きもち」。
すりつぶした黒ゴマ砂糖をまぶして食べます。おいしかった。
前回は夫とレンタカーで行ったので(1泊)どんだけ人里離れた山奥でもちっとも平気でした。
旧道を走ったので山岳少数民族の集落をいくつも通過したり絶景ポイントもあり最高のドライブでした。
今回は‶女ひとり旅‶だし「あんな山奥にひとりで行くなんて」とちょっと勇気がいったのと、
果たして公共交通がちゃんと機能しているのか?
下手すると車をチャーターしないと行けないんじゃないか?
と最新情報がよく分からない中でメーサロン行きを決めました。がしかし、
「タートン⇔メーサロン行き」の黄色い乗合ソンテオは健在でした!!(1日3往復)
(運賃はひとり60バーツ。日本円で220円ほど)
しかも安心の女性ドライバーさんでした!!(ホイールがピンク)
お客6人を乗せて‶定時に‶出発、トップのメーサロン目指していっきに山を登ります。
旧道より快適なアスファルトの新道をぐるぐると登ること1時間半で無事にメーサロンに到着。
お茶の子さいさいでした~。
自家用車の普及でこういった乗合ソンテオも激減してしまったタイなのです。
数日をメーサロンで過ごした後、次の目的地チェンライに向けての下山の時は、
終点の町メーチャンまでのあいだソンテオの乗客は‶私ひとり‶でした。
(帰りに乗ったのはこれ。メーサロン⇔メーチャン行きの乗合ソンテオは深緑色)
やる気をなくしたのか運転手のおじさんは、終点の町の適当な繁華街で「着いたよ」と言って
エンジンを切り、私から運賃60バーツを受け取ると大きな旅の荷物と私を無理やり降ろそうとしました。
ここで降ろされても炎天下で大きな荷物をガラガラと引きずりながら、
どこで乗れるのかも分からないチェンライ行きのバスを探すのはかなり難儀です。
そんなこと絶対に避けたい私はすかさず応戦。
「チェンライ行きのバスに乗りたいので乗り場まで連れていってくださいな~」
と言っておじさんにチップを奮発。
とたんに、おじさんの態度は一変してやる気モード満々に!!
エンジン全開で人とモノでごった返す賑やかな市場の中心部にソンテオを乗り入れて、
向こうからちょうど市場に入って来た「チェンライ行きのおんぼろバス」を自ら止めてくれて、
私の大きな旅の荷物をソンテオから降ろすとあっという間にバスにも積んでくれて、
車掌に「この人チェンライだよ」とひとこと伝えることも忘れずに、
最後は笑顔で手を振ってお見送りまでしてくれました。
あれよあれよといううちに、
私は何もしないで汗ひとつかかずチェンライ行きのバスの車内でした。
だてにひとり旅歴長くありません。フフ…
(チェンライ行きノンエアコンバスの車内。走ると窓から風が吹き込んでくるから暑くはない)
(‶タイの背骨‶といわれる大動脈、国道1号線を南下。R1の終点はバンコク)
メーサロンは日帰りもできますが、絶対に泊まることをオススメします。
にぎやかな観光客が姿を消す夕方から翌朝午前中にかけてが、
山奥の村メーサロンの秘境っぽい素朴さが満喫できるからです。
またいつか海外に行ける日がきたら、再再訪したいです。
去年の今ごろは1カ月かけてこんな風にひとり旅でタイのド田舎を回っていました。
昨年2月11日に出発して帰国をしたのが3月12日です。
タイでもすでに新型コロナウイルスの影響は始まっていて、
旅行者激減(特に中国の人ゼロ)どこに行ってもホテルやゲストハウスは閑散としており、
観光地、みやげもの店、地元向けじゃないレストランはひとっこひとりいませんでした。
3月に入ってチェンマイ空港の国際線が閉鎖されてしまい、
チェンマイから日本へ帰る自分の飛行機も全便運休になっていてビビリましたが、
なんとかかんとか別航空会社の別ルートで成田までたどり着き、
ほとんど乗客のいない上越新幹線で新潟に帰ってきました。
それから今日まであっという間の1年です。
(絶景が楽しめる「洗車場」でもレーンに乗り上げるのは命がけ?)